これからの100歳までウォーキング

 

代表あいさつ

宮下充正名誉会長・中澤公孝会長・福崎千穂副会長

名誉会長のあいさつ

「100歳までウォーキング」名誉会長
(一社)全日本ノルディック・ウォーク連盟会長
東京大学名誉教授

今年86歳になります。100歳になるまでには、まだまだ長い年月が残っています。ところで、高齢になるとがんに罹る確率が高くなります。昨年は、7年前の前立腺がんに続いて、2つ目の膀胱がんとの対決に終始した1年でした。経尿道的膀胱生検術によって、3回にわたって膀胱に発生した腫瘍を切り取りました。さらに、再発を抑えるために膀胱内BCG注入術を毎週1回、計8回受けました。尿道を何度となく利用する治療でしたので、その副反応として尿道狭窄が発生してしまいました。そのため、2021年12月に、経尿道的内尿道切開術を受けました。その後、狭窄が進行しないようにと、尿道にバルーンカテーテルを挿入、設置された状態が年末年始をはさんで数週間続きました。

家にいるときは、尿を貯める袋にカテーテルをつなげば済みますが、外出するときは、カテーテルの先を栓で塞ぎ、尿意を覚えたら栓を開けて便器に流すという面倒がつきまといます。歩かなければ、歩けなくなります。歩けなくなってしまえば、「100歳までウォーキング」の名誉会長を務めることはできません。そこで、共用トイレのある近くの公園を、ポールを持って歩くことにしました。外周約500mの公園です。1周約1000歩、10分ぐらいかかります。そこをまず7周歩き、一休みして水分を補給して、後3周歩くように努力しました。幸い、ほとんど晴天でしたので、新型コロナワクチン3回目の接種日を除いて、毎日10000歩近く歩きました。

「100歳までウォーキング」の会員には私より高齢の方がおられるでしょうから、100歳で歩ける人をみんなでお祝いできるのを心待ちにしています。

 

就任時のあいさつ

今から10年以上も前に、「100歳までウォーキング」の会が立ち上げられました。世間で「人生100年時代」といわれ出したのは、ごく最近のことです。皆さんは、“先見の明”があったと胸を張っていえるでしょう。

老化は“しのび寄って”きます。立ち振る舞いが緩慢になる、物事が忘れやすくなるなど、徐々に感じるようになります。他方で、テレビや新聞、雑誌によって、老化を防ぐ方法が毎日報道されます。それらの知識から、たくさんの高齢者は、自分にあった方法を選択し、いろいろと対処していることでしょう。しかし、皆さんは、これまでの経験から、“歩く”ことこそが、不可欠であるとわかっています。

私自身についていえば、趣味として渓流釣りを楽しんできました。60歳ごろまでは、岩を乗り越え沢の奥深くまで釣り登りました。ところが、75歳を越えるころから、ちょっとした石につまずいたり、坂を滑ったりして転倒することが多くなりました。ですから、最近は足元を確め、ゆっくり沢を登るようにしています。このままでは、数年もしないうちに釣りに行けなくなると思い、筋肉を鍛える運動を週2日行うようにしています。足腰をしっかりさせるために両足で100㎏の重りを持ち上げたり、木の枝につかまって坂を登れるように40㎏の重りを両手で持ち上げたり、などの運動を数回反復します。

会員の皆さんも、外へ出て歩くだけではなく、家の中でも足腰を強くするため階段の上り下り、スクワットを、ポールがしっかり使えるように肩や腕を強くするためやや多いものを持ち上げる運動を、実践してください。“100歳”に近づくために欠かせないといえます。 「100歳までウォーキング」には、次の2つの思いが込められています。 ①ウォーキングを実践して100歳まで寿命を延ばす ②100歳になっても介助なしにウォーキングができる  残念ながら、100歳まで生きられないかもしれません。それは、いたし方ありません。しかし、努力しないで到達できないのでは、後悔することでしょう。

宮下 充正

会長あいさつ

「100歳までウォーキング」会長
東京大学教授

長引くコロナ禍によって自分自身の心と身体を良好な状態に保つことの難しさを実感をもって思い知らされた人は多いと思います。矢野先生が痛み日誌を患者さんに薦めていた理由は、自分自身を知り、己の状態が良好になるように適度な運動など生活行動を調整することでコントロールする術を学んでもらうためでした。私たちのグループは最近、セルフモニタリングなどと呼んで、自分自身の心と身体の状態を知ること、そしてそれをセルフコントロールして良好な状態にもっていくことを支援する仕組みを作ろうとしています。この仕組みというのは100歳までウオーキングのような組織(グループ)によって成り立ちます。まさに100歳までウオーキングはそのモデルケースだと私は考えています。このような組織は、例えば医療機関への受診が必要なのかどうかのアドバイスをくれるコンシェルジュ的な人、簡単な悩み相談をしてくれるカウンセラー的な人がいることで強力なものとなります。学校の保健室の先生に近い役割を考えてもらえば良いと思います。医療的な対応の必要がない人は、心と身体の状態を自身で把握しつつ、みんなで高原や里山のような大自然に囲まれた気持ちの良い環境でウオーキングをしたり、サイクリングをしたり、海で泳いだり、などなど楽しく運動することで心も身体も良好な状態を維持できるように努める。そこには同じような志を持った仲間がいて気軽にいつでも情報交換ができる。心身状態を良好な状態にコントロールする仕方は、そのような情報交換や専門家の話を聞いて学んでいく。これらの活動を通じて、自分自身の状態を把握して、どのようにしたら良い状態を維持できるのか、適切な対応を選択することができる、そのような技術が身についていく。この学びは100歳までウオーキングでは仲間と楽しくウオーキングしながら得られるものです。間も無く桜の季節が到来します。皆さんと楽しくウオーキングする時もすぐそこまで来ていると楽しみにしています。

 

君とは馬が合う

思い起こせば、赤門前の喫茶店で矢野先生と面談したのが初めての出会いであった。それ以降の思い出はとても数ページでまとめることなどできない。ここでは、あえて矢野先生の多くの方にとっては意外な一面について紹介してみる。そこから今日のダイバーシティについて、そして人との出会いについて私なりに思いを馳せてみたい。

30年余り前のある日、大学の院生室で矢野先生からの電話を受けた。「君とは馬が合うので国リハ(国立障害者リハビリテーションセンター研究所)の研究員にならないか」。思いもよらぬ就職の勧誘であった。当時、VICON(動作解析装置)がまだ日本にあまり無い時代、リハセンの研究所には豪華な歩行実験室があった。そこで先輩院生の歩行の発達に関する研究を手伝うために私は国リハに通うようになったのだった。しかし訪れてみたら、矢野先生から「君は電気生理が得意そうだから、基礎的な仕事でもやるか」、と言われ、いわば好きなことをやらせてもらえることになった。大学と違って、順番待ちで実験機材を使うこともなく、ほぼ独り占めで使える環境はこの上なくありがたく、以来ほぼ勝手に好きなように実験をさせてもらった。そんな中での就職のお誘い、私は矢野先生の下、研究員となり、以後18年間を国リハで過ごすこととなった。

矢野先生の「君とは馬が合う」は当初理解できていなかった。矢野先生は豪快であった。小心者の私とは全くタイプが違うと思っていた。とてもユニークであった。秘書の方からはいつも愚痴を聞かされていた。「先生は本当にひどいんです。いつも私が代わりに謝っているんです。手術さえ忘れちゃうんですよ!!」この手の話は枚挙に暇無かった。私は矢野先生がいる日は毎日のように部長室に呼び出され、いつ終わるともしれぬ話を聞かされた。そういうとつまらない話のように聞こえるが、取り留めのない話の中に宝石があって、どれだけ勉強になったかわからない。ある日の部長室、いつものように向かい合って一対一のお話中(と言っても常に99.9%は矢野先生が話すのであった)、ソファーの座り心地が良すぎたのか不覚にも私は先生の目の前で眠ってしまった。ふと目を覚ますと矢野先生は相変わらず話を続けていた。おそらく話し出して、それに集中し出すと相手の反応は眼中に無くなるのであろう。私はそう理解した。

車はスカイライン。院生時代、駐車場に止めてあるスカイラインが、見るたびにボロボロになっていくのに驚いた。しかしその理由はやがて、彼の運転する車の助手席に乗せられるようになってわかった。「とにかく前を向いて運転してください」、心の中で懇願した。話しだすと私の方を向いて運転されるのであった。事故やスピード違反は何度も繰り返されたが、あまり意にかいされていないようにお見受けした。

もうこのぐらいにしておこう。エピソードを挙げたらきりが無い。

私はこの上司の下、院生時代を含めると研究者人生の大半を過ごした。実は私自身が矢野先生に負けず劣らず、おっちょこちょいで、この手の話を挙げるとキリがない。私の周辺にいる人たちは皆知っている。今の時代、大人の発達障害が認知されるようになり、私や矢野先生のような注意配分が偏るタイプの人間がいることも認知されるようになりつつある。しかしまだまだこの認識は十分ではないのだろう。注意配分に大きな偏りがない大多数の性格特性の人たちからすると私たちのようなタイプはいい加減でふざけている、不真面目で使えない人間との烙印を押されるのである。ダイバーシティとはよく言ったものである。正規分布の大半を占める人たちと異なる人種、性、身体的特性、そして性格特性を受け入れるのが真のダイバーシティ社会ではないのか。「日本のリハビリテーション研究のセンターを構築する」、この使命を背負って国リハでの仕事に心血を注がれていた頃、矢野先生の本質を理解できない人達とのやりとりにたいへん苦労されていたことを忘れることができない。

矢野先生が「君とは馬が合う」と言ってくれた。似たもの同士、通じるところがあったのであろう。彼の下でなかったら破門され、研究の世界にはいなかったかもしれない。そういえば、29才で独立した研究室を任され、メンバー集めにいつも苦心した。時に自分とは全くタイプが異なる人間、意に沿わないメンバーもいた。ある日、メンバーの愚痴を言い、「もう一緒に研究する気がない」と話す私に対し、矢野先生は「絶対に切ってはいけない。彼を生かしてみなさい。」と諭された。人を生かす組織を作る。時にピエロになって。矢野先生の背中で教えられた。その後、人材に恵まれ、メンバーを切るということは結局一度もなかった。

国リハの研究部部長を引き継いで間もない2008年、現職である東京大学への異動を打診された。矢野先生が築いた研究部を発展させるべき時に異動することを迷う私に対し、最終的に背中を押してくれたのが同氏であった。そして直後に手紙をいただいた。そこには、以下のように書かれていた。

『・・・・・ 健康や医療の世界では教育が最も重要であります。過去は専門家の教育であり養成でありました。しかし、超高齢化社会を迎えた21世紀には、大多数の人々、つまりMajorityに利益をもたらすコストーパーフォーマンスのよい教育として国民の加齢障害の予防と自己管理技術に関する健康と医療の教育があります。・・途中省略・・この視点の大切さはこの山梨にきて、少し時間ができて考え、多くの助言をこの地で頂いて始めて判りました。そして、この主の教育事業の仕事は国立リハビリの仕事よりも大きな仕事と考えるようになりました。専門家の教育と同時に直接人々に教育をする機会をもつことが必要でありましょう。津山先生の山中湖学級、加倉井先生の先天性四肢欠損症の家族会、宮下先生の大衆とともにある教育やウオーキング協会etcであります。団体を持つことを言っているのではありません。直接人々と交わる機会や場所を是非大切にされて有効にして実用的研究に結実する研究を期待しております。』

100歳までウォーキングは矢野先生にとって、まさに健康教育を実践する、医師として、研究者として、そして教育者として集大成の場であった。

中澤 公孝

副会長あいさつ

「100歳までウォーキング」会長
中京大学教授

「運動をすること」には、神経や筋肉の活動が関わっています。また筋肉へ酸素を送るために呼吸循環器も働きます。そんな活動の刺激が、からだによい効果をたくさんもたらすことはよく知られています。

「100歳になってもウォーキングができる」ようなからだを作るためには、日々の運動の積み重ねや日々の心身の手入れが重要です。股関節や膝関節が痛く、運動をすることが難しい方がたくさんいらっしゃると思いますが、「運動の方法を工夫すること」、「心身の手入れをマメに行うこと」で、少しでも運動を実施していただき、運動の効果を享受していただきたいと願っています。

宮下先生が作ってこられ、また矢野先生が皆さんのために作ってこられた運動の方法あるいは心身の手入れの方法は、「100歳になってもウォーキングができる」ことにつながる方法です。その方法を皆さんとともに引継ぎつつ、また状況に応じて工夫を加えつつ、皆さんとともに「100歳になってもウォーキングができる」ことを目指していきたいと思っております。

この挨拶をさせていいただいている2022年初めは、まだコロナの状況が改善されておらず、以前の「ふつう」の状態で活動することが難しい状況です。「置かれた状況の中でできること」を模索しつつ、皆さんとともに将来につながる活動を行わせていただきたいと思っております。どうぞよろしくお願いいたします。

 

矢野英雄先生との思い出

矢野先生に一番最初にお目にかかったのは、矢野先生が東京大学大学院教育学研究科の私が所属していた学科を兼担されていた頃でした。その当時はあまり接点もなく、見た目の印象から(ごめんなさい)「厳しそうな先生だなあ」と漠然と感じておりました。2021年2月にふじ苑へ先生の書籍のお片付けに伺った際に、私の修士論文発表会に先生も参加されていたということがわかりまして、「あの時いらしてたんだ!」と改めて思った次第です。当時は発表することで目一杯で、どなたがどこに座られておられるかなど見ている余裕もありませんでした。ですが、あまり印象に残っておりませんので、おそらく厳しいことは言われなかったんだと思います(厳しいことを言われていたら、きっと覚えていたと思います)。

その後は、先生が富士温泉病院で水中ポールやノルディックウォーキングのことを始められてから、ご一緒させていただく機会を得るようになりました。とてもエネルギッシュに対応されている一方で、時には測定している脇で疲れて座られていることもあって、普段とてもお忙しく、すごくたくさんのエネルギーを注いでお仕事されているんだなあと感じておりました。

「医者は患者の下僕ですから」とお話されていたことが、とても印象に残っています。特別な階級のようにふるまっているお医者さんも多い中で、先生は患者さんのために、患者さんに近いところでお仕事をされてこられたことと思います。保存療法にこだわって取り組まれてきたことも、人間の体が本来持っている能力と、長い目で見てその人の体にとって良い選択をという、人を最も大切に考えてのご選択だったことと思います。

もっともっとこちらの世にいていただいて、もっともっとたくさんのことを学ばせていただきたかったと思っております。「勉強は自分でするものだよ」と言われそうですが、先生のお仕事のされ方、ベースとなっているお考え方等々は、本当に学ばせていただくことがたくさんありました。この場をお借りして、改めて御礼申し上げます。ありがとうございました。

福崎 千穂

PAGE TOP ▲
パソコンサイトはこちら
スマートフォンはこちら